2024.10.26
【櫻LIVE】第627回:石橋文登・政治ジャーナリスト・千葉工大特別教授/有元隆志・産経新聞特別記者/平井文夫・元フジテレビ報道局上席解説委員との対談動画を公開しました
闘うコラム大全集
- 2023.07.13
- 一般公開
【拡大版】人間「安倍晋三」の決定的評伝
『週刊新潮』 2023年7月13日号
日本ルネッサンス 第1056回
志半ばで斃(たお)れた元宰相は、「日本を取り戻す」という信念の下、国内外の様々な局面で“闘う政治”を実践してきた。その原動力はいったい何だったのか。公私ともに親交の深かったジャーナリスト・櫻井よしこ氏による人間「安倍晋三」の決定的評伝をお届けする。
安倍晋三総理は祖父、岸信介氏のことを「うちのじいさん」と呼んでいた。日米安全保障条約改定がなされた1960年、安保改定反対のデモ隊が繰り出す中、岸信介は命懸けで改定を成し遂げた。
当時、幼かった安倍氏が岸氏をウマに見立ててまたがり、「アンポハンターイ」と声を上げたところ、「アンポサンセーイと言いなさい」と「じいさん」にたしなめられた逸話は広く知られているところだ。
安倍氏は岸氏を慕い、尊敬していたが、岸氏の著作『我が青春』(廣済堂)には祖父と孫をつなぐ決して切れない幾本もの糸が通っている。右の書は戦犯容疑を受けて巣鴨に拘留されていた岸氏が45年暮れから約3年半にわたって書きつづったものだ。獄中生活の無聊を医(いや)すべく、幼い時をすごした郷里山口のこと、親類縁者、恩師や友人知人についてのほのぼのとした記述には、当時の日本人の生き方、親族一同の助け合い、自己犠牲、他者を支える精神などが表れている。安倍総理がいつも語っていた日本の美徳を生きている人々だ。
書の随所から、強面に見られがちな岸氏が実はまめで、子供好きだったことが伝わってくる。小学校4年生だった岸は山口県の西田布施の小学校から岡山県下の内山下小学校に転校した。名門岡山中学に入学するためだ。そこで岸の世話をしたのが岡山医専、後の岡山医大の教授を務めた叔父の佐藤松介だった。松介叔父のところに寛子(後の佐藤栄作の妻)と正子、2人の女児が続いて生まれ、岸は喜んだ。
「子供好きの私は時々寛子をおんぶしたりして遊んだ」と岸は書いている。小学生で、余り体の頑丈でない岸少年が、幼な児をおんぶして遊ぶ姿が目に浮かんでくる。
松介叔父は「男の子に子供など背負わすなよ」と岸の叔母に小言を言うのだが、岸は一向に気にしていない。
安倍氏の言う「強面のうちのじいさん」がそのイメージとは反対に子供好きだったように、安倍氏も3.11の被災者や各地の施設を訪ね、行く先々で子供たちと実に嬉しそうに触れ合っている。その姿は祖父の小さき者への優しさと重なるだけでなく、安倍氏にもし子供がいたら、きっといい父親になっていただろうと思わせるものだった。
岸を世話した松介叔父、そして岸、安倍をつなぐ通奏低音は、日本を担う未来世代への期待であろう。
松介叔父は岸だけでなくその姉2人、その他親類縁者の若者たち、有為の人材を見つけては教育の面倒を見た。35歳の若さで急死した時、蓄えは一銭もなく、叔父の全収入は自分たちの教育費につぎこまれた、と岸は書いている。
叔父の無私の愛と支援を受けた岸は、叔父同様、未来の為の国造りを目指した。現在の日本の世界に誇る社会保障制度は岸の原案から生まれたといってよい。
安倍氏の政治の原点も、日本の未来を担う若者たちへの思いだった。戦後70年談話で安倍氏は言った。「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と。
2021年12月3日の「言論テレビ」ではこう語っている。
「私たちの若い頃よりもいまの若い皆さんは、人生観においても立身出世みたいなことはあまり考えずに、自分が世の中のために役立つ人生を送りたいと思っている人が多いんです。ですから日本の未来は明るいなと思いました。そういう皆さんにとって、能力を活かすことができる、チャンスのある、そして常に開かれている社会を作っていきたいなと思います」
家庭においても岸信介と安倍晋三は似ていると思う。岸は“巣鴨の人”となった後ずっと、「世間から、なんだかんだと悪口たらたらいわれているおやじ」だったが、「仕事のことは絶対に家庭で話さず、どんなに不愉快なことがあっても、家に帰ればいつも機嫌のいい顔を見せてくれ」た、と長男・信和氏は書いた。
安倍総理も家庭において、妻にも母にも徹底して優しかった。思い出すのは18年2月7日、金美齢さんの旭日小綬章受章のお祝いの会でのことだ。
メインテーブルの上座に金さん、その左手に安倍総理、昭恵夫人、私の席順だった。私の左手には気っ風の良い材木商御夫妻、麗澤大学の廣池理事長御夫妻、さらに菅義偉官房長官(当時)御夫妻が着席した。テーブルのさんざめきはやがて北朝鮮の話題となり、総理が言った。
「きっと、金正恩は夜も眠れないくらい緊張してると思うんだよね」
そのとおりだろう。当時、日本は北朝鮮外交を対話と圧力から、圧力を軸とする路線にシフトしていた。横田早紀江さんたちともよく話し合い、政府と家族が結束して、北朝鮮が協議に応じなければ、基本的に圧力を強めていくと決めていた。国連では日本主導で北朝鮮への制裁も決議。追い詰められている金正恩氏は悩んで当然だ。だが、突然、昭恵夫人が言った。
「夜も眠れないなんて、どうして分かるの? 寝室に入って見た人がいるわけじゃないでしょ」
私たちは一瞬、沈黙した。昭恵さんの疑問は、なるほど、分からないでもない。が、総理は「夜も眠れないくらい」と比喩として言ったのではないか。そう思いながら、私は、総理はどう答えるのかと見守った。
総理は穏やかな表情で昭恵さんを見ている。体をおもむろに昭恵さんの方に向け、左手を昭恵さんの椅子の背に置き、少し前かがみになって包みこむような姿勢で語り始めた。
「あのね、金正恩はいま世界中から制裁を受けているんだよね。圧力を受けてとても困っているの。経済が逼迫し国民を十分に食べさせられない。中国との関係もうまくいっていない……」
言い聞かせるような口調に昭恵さんが頷く。こんなことは安倍家では珍しくないのかもしれないと感じさせる日常性がそこにあった。
この会話の少し前、森友学園の話題を昭恵さん御自身が持ち出した。不正確な報道というより、濡れ衣としか言えない非難を浴びていた昭恵さんの瞳から涙が溢れた。私は聞き入りながら、安倍総理を見た。安倍総理は昭恵さんの涙を見詰めていた。「どうしてあげたらいいんだろう」と、心からのいたわりの視線である。苦労をかける。けれど自分の力で守り切るという安倍総理の心の声が聞こえてくるようなまなざしだった。総理にとって昭恵さんはこの世で一番大切な同志であり、守るべき対象だったのだと、深く思う。
あれは亡くなる前年の12月、総理の地元で一緒に食事をしたときだっただろうか。安倍総理が突然言ったのだ。
「私が櫻井さんに会ったのは慰安婦問題の時ですから」
少なからぬ回数お会いしていながら、はじめてお会いしたのはいつなのか。私の記憶ははっきりしない。「慰安婦」や「南京大虐殺」に関する韓国や中国の捏造、その他の歴史問題について私は当時、中川昭一氏とは度々会って議論していた。中川氏を交えた複数の人々との意見交換も少なからず行っていた。けれど、いつ、安倍総理と会ったのかというと定かではない。
後になって『歴史教科書への疑問 若手国会議員による歴史教科書問題の総括』(展転社)を手にして、安倍総理の言いたいことはこれだったんだと納得した。この本をまとめたのは、97年2月27日に設立された「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」である。本の中に安倍総理の発言が収録されている。
「民主主義が正しく機能するためには、『言論の自由』が保障されなければならないことは、自由主義国家において常識と言えます」と、総理は切り出し、続けて同年1月29日、私の身におきた事件について触れた。
神奈川県の三浦商工会議所が、私の講演会を開催する予定だったところ、私の「従軍慰安婦」問題に関する発言を問題視した神奈川人権センターが、講師変更を申し入れた。商工会議所がその圧力に屈して前日に講演をキャンセルした事件である。この動きはその後保守系の法人会にまで広がり、全国で私の講演とりやめが相次いだ。私の発言を批判するのは自由だが、発言自体を封殺しようとするのは言論の自由の侵害だとして、私は抗議した。安倍氏が語っている。
「櫻井さんの発言というのは、昨年10月、横浜市教育委員会主催の講演会で『自分が取材した範囲では従軍慰安婦の強制連行を裏付ける事実はなかった』と述べた発言です。(中略)私はこの事件を産経と読売新聞の記事で知りました。以前より、いわゆる『従軍慰安婦問題』が、今年から中学校のすべての教科書に登場する事に問題意識を持っていたのですが、それを強引に推し進めてきた勢力が、ついに言論弾圧を堂々と始めた事に、政治家として危機感を抱きました」
危機感を抱くや、安倍氏は即、行動を起こした。私の事件からひと月後、中川昭一氏を代表とし、前述の「若手議員の会」を設立したのだ。自身が事務局長となって仲間を集めた。衆議院84名、参議院23名、計107名だ。毎週一回、夜9時から勉強会を開いた。政治家は度々夜の会合に呼ばれるが、その会合後の時間帯に設定した。講師に西岡力氏、髙橋史朗氏らだけでなく、慰安婦強制連行説を唱えていた中央大学の吉見義明教授(当時)や河野談話を出した河野洋平氏らも招いて話を聞いている。
日本の濡れ衣を晴らした
その結果、済州島で慰安婦狩りをしたと証言した吉田清治氏、それを紹介した朝日新聞の記事、女子挺身隊を慰安婦にしたという朝日の大々的報道のいずれも、「まったくのでっちあげであることが解りました」と、97年という早い時期に明言している。朝日新聞が慰安婦報道の間違いを認めて一連の記事を取り消したのはそれから17年後の2014年である。
一連のことを振りかえりながら、先の安倍氏の言葉は、「私たちは共に戦う同志ですよ」という意味ではないかと思い始めた。そんな解釈はおこがましいかもしれないが、横田滋さん、有本嘉代子さん、飯塚繁雄さん、そして西岡さんや阿比留瑠比さんらが共に戦ってきた同志であるように、私もそうなのだと、安倍総理が言って下さったような気がしたのだ。
安倍総理は戦略的に戦う人だ。まず、目標を設定する。仲間をふやす。共に学んで力をつける。その上で目標達成の具体的行動に出る。その決断と行動は鮮やかと言うより他ない。朝日のウソを暴き日本の濡れ衣を晴らした第一人者は安倍総理だったのだ。
安倍総理の戦いは熾烈だったが、そこには強い意志の力が生み出す楽観主義があった。悲観せず、絶対に諦めない。明治産業革命遺産のユネスコ世界遺産への登録がその一例だ。戦前・戦中に日本に移住した朝鮮半島の労働者が強制労働をさせられたと韓国は言う。三井鉱山や日本製鉄などの日本企業は当時、世界に恥じることのない雇用契約を結んでおり、日本人も朝鮮人も同じ待遇だった。強制労働とは無縁だった。
にもかかわらず外務省は韓国側の圧力に屈して「強制労働」を意味する「forced to work」という言葉を受け入れてしまった。
この問題に17年間も取り組み、ユネスコ登録を担当していた加藤康子氏は失望して安倍総理に電話をかけた。すると総理は言ったそうだ。「これから情報発信していこう」と。
一敗地に塗(まみ)れてもそれで終わりではない。情報発信して取り戻す。政治家は言論人とは違って結果を出さなければならないが、その結果は完璧ではないかもしれない。ならば挽回する。大事なことは前進を続けることだと安倍氏は言っているのだ。
言論人の私は総理に無茶な要求をしがちだった。現職総理として靖国神社参拝をなさった13年12月、総理に心からお礼を言ったが、同時に春夏秋冬参拝するのがよいと言った。総理は「任期中、一度の参拝で心は通じる」との考えを示した。
総理を辞してから、幾度も参拝する安倍氏を見て、国際社会の、とりわけ米国の壁の厚さ、即ち烈しい反対に思いを致さなかった自分を省みている。そして想う。各々異なる手法ではあっても、日本国の未来のために戦い続けること。それが、戦い続けた安倍総理への、同志としての誓いである、と。
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